塾式COSMO

「人の気持ちのわかる人になりましょう」なんて。

小さい頃によく言われて「なれるもんならなりたいけれど、一体どうすりゃいいのさ」なんて。

思っていたものです。

「このときの権兵衛さんの気持ちはどのようなものだったか書きましょう」なんて、授業中やらテストやらでそんなことを聞かれると、

「権兵衛さんの気持ちなんて権兵衛さんにしかわからんやろ!」と反発したりしていたものです。 

 

ええ、いやな子どもでした。可愛くないというやつです。早すぎる青い季節でしたので。

そんなときにある詩を読みました。ありがちなことですが、私にとっては運命の出会い。金子みすずさんの「大漁」(多分)という詩です。

うろ覚えなのですが、わずか数行の短いものだったと思われます。内容的には、イワシがたくさん取れたので、浜辺では大漁のお祝いをしていると。けれどその頃海の中では何万のイワシの弔いをしただろう、と、いうようなものでした。

当時、とってもいやな餓・・・お子様だった私としては、

 

やられてしまった・・・!!!

 

この一言でした。

イワシですよイワシ。だってイワシなんですよ。

今だから高級品ですが、一昔前までは庶民の味方、安い魚の代名詞、つまり非常にたくさん良くとれた、魚であったわけです。

大漁は大漁でも、「イワシ」の大漁なんて、日常そこここにあった話ではないのかと。仮にそう仮定すると、そんな大量にいる魚の大量にあるだろう大漁をつかまえて、海の中ではイワシの弔いをしただろう、だなんてもう、金子さん・・・!!!びっくりですね、びっくりですとも。

おんなじように息をして暮らしていても、金子さんと私の見ているものとの間には空と海程の違いがあるのだ、という衝撃。

私は「イワシ」を「イワシ」としてみています。

「イワシ」。

その三文字にくっついてる、大量にとれる庶民の味方、という概念をとおして。でも金子さんは違うのですね。そんな概念全てすっ飛ばして「イワシ」を「イワシ」そのままのものとしてみているのだということです。

「大漁」(多分)という詩は、イワシの気持ちに想いを飛ばして初めて書かれる詩であろうと、・・・最初の話に戻ります。

 

人の気持ちなんてわかりません。そんなのわかるほうが嘘です。ですから先生が言った、「人の気持ちがわかる」というのは、決して「人の気持ちを読む」こととイコールではないのですね。多分。きっと。多分。

それはつまり、わかろうとすることではないか、わかりたいという行為ではないか、表面にとらわれず、概念を振り切って、それでもって推し量りたい、ということ。

世の中にはそのようにして、権兵衛さんどころかイワシの気持ちまでわかろうとして伝えてくれる人がいるのだ、と、いうことです。

さあさあ長くなりましたがこの話、実はまだまだ続いてしまいます。

次週「ここで顔を出すエゴイズムの問題をいかなる開き直りによって自己満足肯定へと持っていくのかについての諸々」にてお会いしましょう!!